高射砲第2連隊・歩哨所の保存のための寄付金を贈呈

当会から柏市へ20万円を寄付 
 太平洋戦争時、富勢村根戸(現柏市根戸)にあった高射砲第2連隊の歩哨所保存のために、当会では昨年10月から寄付金を募集しました。会員の皆様のご厚意が集まり、2か月間で寄付金額が20万円となったため12月18日、柏市へ贈呈しました。
 当日は、上山和雄代表(國學院大學教授)、青山茂副代表、櫻井良樹監事(麗澤大学教授)、事務局から岸本さんと浦久の計5人が会を代表して秋山市長にお会いし、贈呈。その際、柏市の戦争遺跡の説明や「江戸時代から現在まで、ダイナミックに変貌をとげた柏の歴史を、柏の子どもたち・市民の方々、市外・県外の人にも知ってもらいたい」と話し、「戦争遺跡を活用して、史跡めぐり・ウォーキングのコースをつくってはどうか」など、いくつかの提案をしました。
 今回の歩哨所の移設・保存に関しては、当会のほか市内2団体からも寄付が集まり、市民側から柏市へ合計約25万円が寄付。その動きをうけて柏市も補助をし、歩哨所の移設・保存が実現しました。
 なお、柏市から会へ「お礼のことば」をいただきました。併せて掲載します。

寄付金贈呈2(ブログ)
▲上山代表から秋山市長へ寄付金を贈呈

お礼の言葉2(ブログ)

【お礼のことば】
手賀の湖と台地の歴史を考える会代表 上山和雄様 
 このたびは、根戸高野台に所在した陸軍部隊の歩哨所の移設及び保存・管理のために、多額のご寄附を賜り、厚くお礼申し上げます。
 市といたしましては、今回の移設保存に限らず、柏市の歴史を語り伝える多くの文化財の保存・活用に、より一層努めることで、ご厚意に報いたいと存じております。
 今後とも、ご支援ご協力を賜りますようお願い申しげます。
    平成24年12月18日    柏市長 秋山浩保

戦跡説明(ブログ)
▲秋山市長に柏市の戦跡の現状を説明し、今後を提案

(2013年1月14日 事務局)

高射砲第2連隊とは

高射砲第2連隊(東部七七部隊、近衛師団所属)とは

 昭和12年10月、野戦重砲兵第8連隊を母体として市川市国府台に新設され、翌年11月東葛飾郡富勢村根戸(現柏市)に移動した。太平洋戦争勃発直前の16年11月、連隊本部を始め主力は東京世田谷に移動(この際、防空第2連隊と名称変更)。さらに、19年4月、再度名称変更を行い高射砲第112連隊となった(終戦時の本部は祖師谷)。
 根戸には、高射砲第2連隊の補充隊(補充隊と称したかは不明)が残ったが、18年にはすべての高射砲補充部隊は解散。その任務は関係防空部隊き下(指揮下)の改編(新編)部隊に継承された。
 高射砲第2連隊は、陣地を固定した部隊ではなく(固定陣地もあっただろうが)、いすずやフォード等の大型トラックで高射砲を牽引した機動性のある部隊。日本陸軍では珍しい機械化部隊のひとつであったと言えよう。

※根戸の連隊跡地には留守近衛第2師団の歩兵および工兵の補充隊が入ったが、これらの部隊は、20年に東京師管区歩兵第2補充隊(東部83部隊)と東京師管区近衛工兵補充隊(東部14部隊)と名称を変更。
※終戦時柏には第111高射砲連隊(終戦時の本部は埼玉県安行村)第1大隊の第4中隊が配置されていた。中隊なので、規模はあまり大きくなかったと考えられる。   ( H.K.)

軍郷とは

軍郷(ぐんごう、ぐんきょう)とは

 「軍のまち」であったことあらわすとき、「軍都」「軍郷」という2種類の言葉が用いられます。では、軍都と軍郷はどのように違うのでしょうか。明確な定義があるわけではありませんが、次のような差があると思われます。

軍都:部隊などの設置された地域が、城下町など近世以来の「都市」であり、かつその都市が県庁など他の大きな機能を有せず、軍事施設が最大の施設となっているような都市を「軍都」と称しています。
(師団司令部や聯隊本部などのある大都市や県庁所在地などを「軍都」と称することもありますが、かつて城下町でありながら、近代になると次第に衰退し、軍隊が最大の「産業」になった町が典型的な「軍都」といえるでしょう)
軍郷:陸軍部隊や施設の進出した場所が、基本的に農村や村落であり、施設が複数の自治体にまたがる場合が多い地域を「軍郷」と呼んでいます。「軍郷」と呼ばれた地域は、「帝都」周辺を除けばないかもしれません。
                   
柏の場合は現在のイメージで「軍都」が使われることもありますが、当時は紛れもなく農村で、かつ軍事施設が複数の自治体にまたがっています。そのため「軍都」ではなく、「軍郷」と称したほうがはるかに実態に合っています。同様な地域は、習志野や船橋など千葉県内のみでなく、神奈川県や埼玉県・茨城県など、「帝都」近辺に散在しています。
(2012.11.28)

根戸の歩哨所(昔の写真)

市民の方から写真が送られてきました
◆「歩哨所の保存」については、この下の別記事にまとめています。 

9月9日の朝日新聞ちば版に柏市根戸の「高射砲第2連隊の歩哨所」の記事が掲載され、それをご覧になった市民の方から、昔の歩哨所の写真が送られてきました。「あの歩哨所は通るたびに気になって、確か写真に撮ったと思い出しました」と手紙には書かれています。
 ありがとうございました。懐かしく感じられる方も多いと思いますので、紹介させていただきます。(2012.9.21事務局)

1)一番古い写真。何年ごろでしょうか
歩哨所1-2(ブログ)
▲現在の県道方面から撮られています

歩哨所1-1(ブログ)
▲歩哨所も撮影されています

2)上の写真から、かなり時間は経過しているようですが、区画整理がまだ実施されていない時代です
歩哨所2-1(ブログ)
▲「手前左側は、現在セブンイレブン」とのこと。看板には「交通安全宣言地区」の文字が見えます。正面にはヒマラヤスギ

歩哨所2-3(ブログ)

むかしの歩哨所
▲「いつの間にか、フェンスが出来て、(歩哨所の)中が見えなくなりました」

歩哨所2-2(ブログ)

3)児童公園に移設された正門
歩哨所3-1(ブログ)

歩哨所3-2(ブログ)
▲手前の看板が壊されています。それを写真に撮られた方のお気持ちも一緒に掲載します

高射砲第2連隊の歩哨所などの保存を

 太平洋戦争中、富勢村根戸(現柏市根戸)にあった高射砲第二連隊の遺物が廃棄されそうになっています。高射砲第2連隊は、防空飛行隊とともに帝都防空の任を負った部隊で、正門一対が根戸高野台の公園に移設されています。その他の遺構・遺物の多くはなくなってしまいましたが、数十年前に歩哨所・側門・馬繋索など、土木会社の空き地に放置されていたものを関係者が引き取り、個人で保存されてきました。
 しかし一昨年、その関係者が亡くなったため、遺物を廃棄せざるを得ない状況になりました。
 当会役員会で、歩哨所などを移設・保存できないかを話し合い、役員を中心に保存に取り組むことに決まりました。
(高射砲第2連隊については、写真下をご参照ください)

この歩哨所保存について、9月9日の朝日新聞ちば版で紹介されました

歩哨所(ブログ用)
▲歩哨所(コンクリート製。高さ:基礎部分も含め、約3メートル50センチ、幅・奥行:1メートル65センチ、窓:縦23センチ、横27センチ。窓は内側床面から約1メートル40~60センチの位置に設けられている)

側門(ブログ用)
▲側門

高射砲第2連隊(東部七七部隊、近衛師団所属)
 昭和12年10月、野戦重砲兵第8連隊を母体として市川市国府台に新設され、翌年11月東葛飾郡富勢村根戸(現柏市)に移動した。太平洋戦争勃発直前の16年11月、連隊本部を始め主力は東京世田谷に移動(この際、防空第2連隊と名称変更)。さらに、19年4月、再度名称変更を行い高射砲第112連隊となった(終戦時の本部は祖師谷)。
 根戸には、高射砲第2連隊の補充隊(補充隊と称したかは不明)が残ったが、18年にはすべての高射砲補充部隊は解散。その任務は関係防空部隊き下(指揮下)の改編(新編)部隊に継承された。
 高射砲第2連隊は、陣地を固定した部隊ではなく(固定陣地もあっただろうが)、いすずやフォード等の大型トラックで高射砲を牽引した機動性のある部隊。日本陸軍では珍しい機械化部隊のひとつであったと言えよう。
※根戸の連隊跡地には留守近衛第2師団の歩兵および工兵の補充隊が入ったが、これらの部隊は、20年に東京師管区歩兵第2補充隊(東部83部隊)と東京師管区近衛工兵補充隊(東部14部隊)と名称を変更。
※終戦時柏には第111高射砲連隊(終戦時の本部は埼玉県安行村)第1大隊の第4中隊が配置されていた。中隊なので、規模はあまり大きくなかったと考えられる。   ( H.K.)

 先日、会では高野台町会の役員の方々にお集まりいただき、昔のお話と、ご存知の連隊関係遺跡・遺物を案内いただき、境界杭・防空壕跡ほかを確認しました。詳しくは別記事でご報告いたします。
(2012.9.1)
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