小金牧高田台(十余二)上野(豊四季)の略図について

小金牧高田台(十余二)上野(豊四季)の略図について
  
 柏近現代史の原点とも言える小金牧のうち、高田台牧と上野牧の開墾はその後の市域の歴史に大きな影響を与えた。地元民にとっては、戊辰戦争の負の遺産となり、明治時代の大審院にまで及ぶ裁判闘争を生み出す。十余二の厳島神社境内にある高田原開拓碑はその間の事情を端的に語っている。「当地は元高田台牧也。明治二年より入植開拓せり。初期入植者は自作農たるべき筈の処、大隈及鍋嶋等の所有となりて八〇余年、昭和二二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」と。
 大隈重信や肥前藩主鍋島の小作人にされた地元民のささやかな解放宣言である。しかし大半の土地は三井など旧開墾会社の所有に帰した。現在三井を中心とした柏市北部開発は、その一つの帰結である。
 その歴史的基礎となる十余二と、豊四季の村域と旧牧を重ね合わせた略図を作ってみた(下図参照)。旧牧の範囲を正確に確定することはかなり困難である。略図の範囲は享保年間の牧改革で一番狭められた牧の領域である。明治時代の地図には,野馬土手がこの地域を囲んでいる跡が残る。野馬土手は、御普請土手26333間、勢子土手18382間、自普請土手31252間、合計で7万5千間余(35里67町)で四〇里野と言われた。牧の境界を作っていたのはこの土手だけでなく、谷津田も境界となった。
 牧の周辺に点々とある「享保請地」は享保以前、牧の範囲であった。享保改革の中で、吉宗の方針で地元民の要求とは別に、強引に牧付き村々に開墾を迫り検地を実施した。しかし野馬は夏場の涼や水を求めて、野馬土手を超えて原新田に入り込み、延享二年(1745)に再び幕府は大半の原新田を牧地に戻した。このため牧地は事実上拡大した。
 明治の開墾でこの「享保請地」が、開墾会社と地元開拓民との間で争奪となった。
享保請地の大半は地元開拓民に帰属し、牧地は享保改革期と同じ範囲まで狭められた。それが豊四季村(581町歩)と十余二村(597町歩)の村域となる。
 この2カ村で1千町歩を超える広大な台地の土地が、柏市の近現代史を規定することとなる。裁判闘争を経て、戦時中には軍用地として飛行場や軍施設が造られた。
 現在つくばエクスプレスが通り、豊四季団地ができ、東大、千葉大学が一角を占め、国立がん研究センターや県立柏の葉公園などが旧牧地に点在する。もちろん手賀沼や、利根川から派生する谷津田周辺には旧村が点在し、中世以来の歴史を刻んでいる。決して柏は歴史のない街ではない。絵図をもとに、柏の歴史をひも解いてみるのも興味深いことと思う。                                               中村 勝
                            (2012.11.12 事務局)

十余二(高田台牧)豊四季(上野牧)想定図
作成:中村勝、山田宏(作図)
小金牧(地図)

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