趣旨文

【趣旨文】

 手賀沼が、人の心の汚れを引き受けてから、早半世紀、
全国ワースト1の汚名は辛うじて免れているが、汚れの本質は変わらない。
豊かな手賀沼はいたいけな姿をさらしながらも、綺羅星のような歴史の遺産を周囲に散りばめ、なお人々を癒し続けてくれている。

 第4氷河期が終わり氷床も溶け、手賀沼地域は遠浅の海となって、そのまま栃木辺りまで続いていた。縄文の人々は数千年の時を自然の豊かさの中で暮らし、多くの遺物を残し消えていった。
 気候の変動と共に潮は後退し、手賀沼地域は潮の西の外れとなる。いわゆる香取の海の西端を担いながら、時代は弥生から古墳時代に入り、古墳を始めとした多くの遺構を残してくれた。
 歴史は下り、製鉄遺跡が出現し、東海道も大和からこの地域を通り、石岡へと続いていた。もちろん陸上ばかりではなく、古代の大量輸送の手段である水上交通も盛んで、多くの人や物が香取の海を往き来した。
 中世に現れた、主なき巨大な町とも考えられる北柏の法華房は、時代は前後するものの相馬御厨と共に、この地域の豊かさを表す象徴的遺跡である。また、箕輪城を始めとする中世の城も手賀沼地域に特に多く築かれ、幾つも現存する。
 手賀沼の美しさを最後に語るのは、我孫子の白樺派の人々。武者小路実篤、志賀直哉、バーナード・リーチ、浜田庄司、そして彼らを迎えた柳宗悦、北の鎌倉と称されるゆえんでもある。

 しかし現在、数千年の歴史を持つ美しい沼は、20世紀の人間の傲慢さと愚かさによる地球そのものの破壊の流れの中で、美しさを失ってしまった。ただその中で、開発されてしまった柏や我孫子に比べ、旧沼南地域はまだ豊かな森を残し、歴史を眠らせている。わずかに残された森を残すことは、ある意味人間の懺悔であり、鎮魂でもある。そして、傲慢でなかった人々の歴史を残すこともまた、手賀沼への鎮魂ともいえる。
 時を残すことは出来ないが、形と思いは残り、それを歴史というならば、我々は正に歴史を作っている。正しい歴史というものはないが、遺産を発掘し、語り伝え、後世に送り届けることは、唯一の正しさなのかもしれない。

 大正12年、手賀沼は関東大震災で身震いし、湖底から2艘の丸木舟を吐き出した。縄文時代の船と言われ、そのうちの1艘は我孫子市高野山の八幡神社の壁に吊るされている。浮き上がった当時、8メートルの長さがあったようだが、長い間陽に当たり、激しく劣化した。手賀沼流域の歴史と自然の多くはすでに失われ、またこの縄文の丸木舟のように失われようとしている。

 しかし、辛うじて形と命を保っているものもある。
 今はまだ遅くない。残されたものをどう生かし、未来につなぐことが出来るか、私たちは、それを問われている。

 手賀沼とその流域の歴史と環境を研究し、発掘し、聞き取り、それを後世に残していきたい。当会は、そのことに賛同する者の集まりである。

2009年7月26日




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