戦跡めぐり「幻の戦闘機『秋水』を訪ねて」

 常総生活協同組合(本部:茨城県守谷市)から、「柏飛行場・秋水を中心とする戦跡めぐりの案内をお願いできませんか」という問い合わせを10月初旬にいただきました。その後、会員有志で、また常総生協の方々と一緒に下見をし、ルートを決め、11月18日に戦跡めぐりを実施しました。当日は当会会員の栗田尚弥さん(國學院大學)が解説。そのほか、「NPOこんぶくろ池自然の森」のみなさんが公園内の掩体壕の暫定観察路をつくってくださったり、戦時中柏飛行場周辺で生活されていた方が思い出を話してくださったりと、いろいろなご協力がありました。              
 【ルート】移動は貸切バス、10時~15時30分
こんぶくろ池自然博物公園(掩体壕)→東誘導路跡→柏の葉公園センター(レクチャー)→通称102部隊正門・陸軍航空廠立川支廠柏分廠跡→(昼食)→秋水燃料庫群→*旧吉田家住宅歴史公園

①こんぶくろ池自然博物公園
 NPOこんぶくろ池自然の森の事務局長・古橋勲さんの解説で園内を歩きました。同公園には自然度の高い多様な動植物の生態系が残り、史跡としては野馬土手と掩体壕が保存されています。

こんぶくろ池4(ブログ)
▲ところどころ紅葉した木々の姿がこんぶくろ池に映る、晩秋の風景を楽しんだ

◆野馬土手
こんぶくろ池2新 (ブログ)
▲江戸時代、この一帯が幕府直轄の放牧場「小金牧」だった名残。野馬をとらえたり誘導したり、いろいろな目的のために土手が築かれた

◆掩体壕
掩体壕見学(ブログ)
▲掩体壕のための暫定観察路に加え、看板も設置していただいた

掩体壕2(ブログ)
▲この掩体壕は馬蹄(ばてい)形。戦況が悪化するなか、敵の爆撃から戦闘機を守るために飛行場外に掩体壕が次々とつくられた

◆東誘導路跡(こんぶくろ池自然博物公園に沿った道)
誘導路跡(ブログ)
▲現在も道として使用されている東誘導路の一部。この東誘導路沿いに6基の掩体壕を確認。ただし、完全な形で残っているものは2基(2009年7月、当会調べ)

②レクチャー(柏の葉公園センター)
レクチャー(ブログ)
▲「飛行場がなぜ柏につくられたか、配備された部隊、軍郷はどのように形成されたか、秋水について」などが説明された

③通称102部隊正門・陸軍航空廠立川支廠柏分廠跡
 通称105部隊、立川支廠柏分廠の本部・兵舎・格納庫などがあった場所。105部隊の正門のほか、当時の建物がわずかに残っています。
正門2 (1)(ブログ)

飛行場正門(ブログ) (2)
▲秋水の訓練用につくられたグライダー(秋草)が近くに隠されていたこと、小学校の先生に連れられて誘導路に松の枝をさしにいったことなど、当時のエピソードを地元の方が話してくださった

分廠石垣

分しょう(ブログ)

ガス庫(ブログ)

④秋水燃料庫群(花野井)
 戦争末期、秋水の燃料庫は柏飛行場以外に柏市大室~花野井にもつくられました。ただし現在は、花野井地区に完全な形のものが2基、部分的なものが2基残っているのみ(2011年1月16日、当会調べ)。今回はその花野井地区を歩きました。
燃料庫1a(ブログ)

燃料庫1b(ブログ)

燃料庫2a(ブログ)

燃料庫3(ブログ)

⑤旧吉田家住宅歴史公園(花野井)
 戦跡ではありませんが、「柏の歴史に触れられる場所」として、ルートの最後に加えました。建物は国指定重要文化財、庭園は国登録記念物。案内は同公園のボランティアガイドの方にお願いしました。

吉田邸3(ブログ)
吉田邸2(ブログ)

(2012.11.28 J.U.)

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軍郷とは

軍郷(ぐんごう、ぐんきょう)とは

 「軍のまち」であったことあらわすとき、「軍都」「軍郷」という2種類の言葉が用いられます。では、軍都と軍郷はどのように違うのでしょうか。明確な定義があるわけではありませんが、次のような差があると思われます。

軍都:部隊などの設置された地域が、城下町など近世以来の「都市」であり、かつその都市が県庁など他の大きな機能を有せず、軍事施設が最大の施設となっているような都市を「軍都」と称しています。
(師団司令部や聯隊本部などのある大都市や県庁所在地などを「軍都」と称することもありますが、かつて城下町でありながら、近代になると次第に衰退し、軍隊が最大の「産業」になった町が典型的な「軍都」といえるでしょう)
軍郷:陸軍部隊や施設の進出した場所が、基本的に農村や村落であり、施設が複数の自治体にまたがる場合が多い地域を「軍郷」と呼んでいます。「軍郷」と呼ばれた地域は、「帝都」周辺を除けばないかもしれません。
                   
柏の場合は現在のイメージで「軍都」が使われることもありますが、当時は紛れもなく農村で、かつ軍事施設が複数の自治体にまたがっています。そのため「軍都」ではなく、「軍郷」と称したほうがはるかに実態に合っています。同様な地域は、習志野や船橋など千葉県内のみでなく、神奈川県や埼玉県・茨城県など、「帝都」近辺に散在しています。
(2012.11.28)

「手賀沼干拓を歩く」に参加して

 秋晴れの11月10日、「近世の手賀沼干拓」をテーマに総勢22人で手賀沼周辺を歩いてきました。企画・解説は中村勝・当会副代表、柏市教育委員会・高野博夫さん。
 現在、かつての手賀沼の半分にあたる約550ヘクタールが水田になっています。干拓・新田開発への挑戦は江戸時代から始まりましたが、利根川との水位の差がほとんどないために難航し、結局「成功」と言えるのは手賀沼単独の機械排水が可能になった昭和40年代。特に人力で堤を築いて干拓を試みた江戸時代は、多くの労苦をともなったにもかかわらず、すぐに堤が切れ、ほとんど失敗に終わりました。
 その江戸時代にはどのようなことが行われ、またどのような人がかかわったのか――関連する史跡・地域をまわり、当時の干拓と従事した人たちの生活を知ることができました。手賀沼干拓の伝説の中には「千間堤の人為的破壊」など史実とは違うものがあるようですが、現地に行くとそういった伝説が生まれた背景も理解できました。紅葉がすすむ秋の景色もきれいだったし……、とても楽しい一日となりました。柏市教育委員会と共催。
【ルート】移動はバス
柏市郷土資料展示室(柏市役所沼南庁舎)→香取・鳥見神社(布瀬貝塚)→浅間橋(千間堤跡)→相島芸術文化村(昼食)→発作村→*旧沼南・名主邸の長屋門

①柏市郷土資料展示室(柏市役所沼南庁舎)
解説(ブログ用)
▲まず最初に、中村副代表から郷土資料展示室前で「近世の手賀沼干拓」全般についてレクチャー
展示室(ブログ)
▲企画展「検地帳が語る柏の村々」を高野さんの解説で見学

②香取・鳥見神社(布瀬貝塚)
鳥見神社(ブログ)
▲香取・鳥見神社(柏市布瀬)。手賀沼低地に突き出した舌状台地の先端に位置し、中世の手賀原氏とのかかわりもあるなど、古くからの信仰の地。神社を覆う森は、長い年月が経ち植生があまり変化しなくなった「極相林」
鳥猟碑(ブログ)
▲鴨猟記念碑。手賀沼の鴨猟は、縄に鳥モチをつけ水面に浮かべる「ボタ縄猟」と、沼周囲に網を張る「張切猟」の組み合わせで行われ、秀吉や家康にも献上された
拝殿(ブログ用)
▲拝殿。以前は見事な透かし彫りが施された社殿だったが、残念ながら昭和61年に全焼。現在の本殿・拝殿はその後建て替えられたもの。天保6(1835)年の神社再建に際し、江戸の商人から「100両」「50両」という多額の寄付があったことが刻まれた石碑が残り、鴨猟の規模の大きさが推測される
komainuブログ
▲「狛犬」は火事にあっても無事だった。どっしりとして、彫りが深い
貝塚(ブログ用)
貝塚アップ(ブログ用2)
▲鳥見神社のある台地先端部分全体が貝塚になっている。今回は露出していて貝の化石がよく見える場所を見学

③浅間橋(千間堤跡)
浅間橋(ブログ用)
▲浅間橋(千間堤跡)。この橋のある場所に享保12(1727)年、有名な千間堤が築かれた。ただ7年後の同19年には利根川からの逆流を受けて決壊

④相島芸術文化村
相島案内(ブログ用)
▲昼食を兼ねて相島芸術文化村へ(我孫子市相島新田)。井上家の門・主屋・土蔵は国の登録有形文化財に指定され、公開されている。二番土蔵は水塚(みずか)の上に建てられ、湿気とりのためか、床面にシジミが敷きつめられるなど、干拓地ならではの工夫がされていた。ガイドはご親族の井上さん

新土蔵
▲昭和6年築の新土蔵は、コンサートなどイベント会場としても使用

相島(ブログ用)
▲井上家は享保期に干拓のために現地へ移住。長く水害に苦しめられたが、大正末期~昭和初期に12代・二郎が手賀沼の一部分を堤で囲い、機械排水に成功した。この建物は江戸末期築造、昭和初期改装の主屋
相島室内

貝合わせ(ブログ用)
▲貝あわせの貝も展示
相島食事(ブログ用)
▲定食を注文。このほかに庭になった柿やブドウもデザートに

⑤発作村
発作 (1)(ブログ用)
▲干拓のために移住してきた人たちが住んだ発作村(印西市発作)。写真の右は屋敷地で、周囲よりは高く土が盛られているが、干拓が成功するまでは洪水がおきると冠水したという
水塚(ブログ用)
▲水塚の上に建つ蔵。水塚とは、洪水に備え、屋敷地より更に高くした塚(土盛り)のこと
頌徳碑(ブログ用)
▲海野屋作兵衛の頌徳碑。海野屋作兵衛は、江戸時代初の本格的干拓「寛文期の干拓」に関わった人。開発は思うように進まず、当初の17人の仲間のうち、海野屋作兵衛以外はみな撤退した

⑥旧沼南町・名主邸
長屋門(ブログ用)
▲元名主邸の長屋門(柏市鷲野谷)。中世の高城氏からの書状も残る旧家で、ルートに近かったので、見学できることに。ありがとうございました!!

(2012.11.15 J.U.)



小金牧高田台(十余二)上野(豊四季)の略図について

小金牧高田台(十余二)上野(豊四季)の略図について
  
 柏近現代史の原点とも言える小金牧のうち、高田台牧と上野牧の開墾はその後の市域の歴史に大きな影響を与えた。地元民にとっては、戊辰戦争の負の遺産となり、明治時代の大審院にまで及ぶ裁判闘争を生み出す。十余二の厳島神社境内にある高田原開拓碑はその間の事情を端的に語っている。「当地は元高田台牧也。明治二年より入植開拓せり。初期入植者は自作農たるべき筈の処、大隈及鍋嶋等の所有となりて八〇余年、昭和二二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」と。
 大隈重信や肥前藩主鍋島の小作人にされた地元民のささやかな解放宣言である。しかし大半の土地は三井など旧開墾会社の所有に帰した。現在三井を中心とした柏市北部開発は、その一つの帰結である。
 その歴史的基礎となる十余二と、豊四季の村域と旧牧を重ね合わせた略図を作ってみた(下図参照)。旧牧の範囲を正確に確定することはかなり困難である。略図の範囲は享保年間の牧改革で一番狭められた牧の領域である。明治時代の地図には,野馬土手がこの地域を囲んでいる跡が残る。野馬土手は、御普請土手26333間、勢子土手18382間、自普請土手31252間、合計で7万5千間余(35里67町)で四〇里野と言われた。牧の境界を作っていたのはこの土手だけでなく、谷津田も境界となった。
 牧の周辺に点々とある「享保請地」は享保以前、牧の範囲であった。享保改革の中で、吉宗の方針で地元民の要求とは別に、強引に牧付き村々に開墾を迫り検地を実施した。しかし野馬は夏場の涼や水を求めて、野馬土手を超えて原新田に入り込み、延享二年(1745)に再び幕府は大半の原新田を牧地に戻した。このため牧地は事実上拡大した。
 明治の開墾でこの「享保請地」が、開墾会社と地元開拓民との間で争奪となった。
享保請地の大半は地元開拓民に帰属し、牧地は享保改革期と同じ範囲まで狭められた。それが豊四季村(581町歩)と十余二村(597町歩)の村域となる。
 この2カ村で1千町歩を超える広大な台地の土地が、柏市の近現代史を規定することとなる。裁判闘争を経て、戦時中には軍用地として飛行場や軍施設が造られた。
 現在つくばエクスプレスが通り、豊四季団地ができ、東大、千葉大学が一角を占め、国立がん研究センターや県立柏の葉公園などが旧牧地に点在する。もちろん手賀沼や、利根川から派生する谷津田周辺には旧村が点在し、中世以来の歴史を刻んでいる。決して柏は歴史のない街ではない。絵図をもとに、柏の歴史をひも解いてみるのも興味深いことと思う。                                               中村 勝
                            (2012.11.12 事務局)

十余二(高田台牧)豊四季(上野牧)想定図
作成:中村勝、山田宏(作図)
小金牧(地図)

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小金牧(ブログ用)
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